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【美術】舟越 桂 私の中にある泉@渋谷区立松濤美術館

現代日本を代表する彫刻家、舟越桂(1951–)の展示を見に行ってきました!

shoto-museum.jp

 

🗻ちょう個人的評価🗻

 ・混雑 
ちょい混み。1室に15人程度。ただ入口でみんな「1時間で見終わるようにしてください」と注意を受けます。

・作品ボリューム
ちょうどよかった!値段と作品を見る時間(1時間程度)が釣り合っている!

・説明量
ちょうどよかった。多すぎない。あっさり。

 ・テーマとの整合性(テーマは美術館URLや写真を参照)
それなりに泉感を作品で感じられました。説明書きも必要最低限でそこそこ自分でいめーじを補完できて楽しかった。

 

・テーマの面白さ(下記に起こしたテーマ参照)

うーーーん、作者の泉を理解したかといわれると、作品の浮遊性みたいなものは作品を見て感じられました。でも作者がこの作品を作っている意図めいたものがわかったかといわれるとさっぱりです。
ただこういう彫刻もあるんだなという発見という意味合いのほうが私の中では大きかったかな。

 ・右脳左脳度

きれいでしたねーー結構右脳で見てましたね。8:2くらい。解説を読むより感じたい作品が多かったかな。

・建物

きれいでした!


【スタイル歴】
東京藝術大学大学院在学中に函館のトラピスト修道院から聖母子像制作の依頼を受けたことを契機に、本格的に木彫での人物像の制作を開始。

・1980年代にはじまる楠の木彫彩色の人物像

・1990年代前後から異形化が試みられるようになり、新たな表現領域が切り拓かれていきました。

 

【展示テーマ】
舟越は、一貫して人間の姿を表すことにこだわり、「自分の中の水の底に潜ってみるしかない」と、創造にあたってまず自分自身と向き合う姿勢をとり続けてきました。
その背後には「ある個人を特定して語っていく事、それが普遍的に人間について語る事になっていく」という思いがあり、
またその内面は社会的あるいは個人的な様々な事象を受けとめ揺らぎ続けてもいる社会に続く水脈のようです。
この作家の心のありようを、「私の中にある泉」と呼びます。
・1980年代から今日までの代表的な彫刻作品
・ドローイング
・版画
・何かを思うたびに書き留められるメモ
・自作のおもちゃや小物など
を見ていく中で、作品が生み出される作家自身の内なる源泉の姿そのものを探ります。

 

 

 

1章 私はあゆむ、私はつくり出す
キリスト教聖母像を頼まれる作成する2年間の中で楠に出会う、そこから始まった舟越の作品が展示されている。

何の情報もないときの最初の印象は

「無表情だなぁ」

という感想。全部の彫刻が無表情!

ちらしではその無表情のなんとも言えない表情に惹かれたわけだが、

全部が無表情わなぁ……となんとも言えない気持ちになる。

『午後の遺跡』という足部の彫刻とその周りに額縁のような枠組みを受けた作品は不思議な空間で気になりました。

あとから解説を読んだら、足の彫刻の周りに額縁のような枠組みを周囲に置くと突如動きや空間性が出現するユニークな作品と書いてあってなるほど!と思いました。

・仏像制作の技法で眼玉を入れるようになったそうですが、

『中野の肖像』(いれてない作品)や、始めて玉を入れたマスクなどが置いてあって比較できるのが良かったです。やはり玉を入れたほうが、幻想的な感じがより深まる表情になるなと思いました。

・一個一個の無表情さが重なるとちょっとなんとも言えない気持ちになりますが、一つ一つは『抽象的で静謐な雰囲気』を醸し出している素敵な作品です。
来ているものはモデルが実際に来ていた日常の服なのに、不思議な表情をしていて

それがまたアンバランスで、そこから何かが生み出されていくように感じます。

・友人が作者の作成する様子を『自分を削っていくようだ』と話していたようです。
作者のコメントがありました。『人物がスッと立って、動くでもなくて射続ける、立ち続ける・・・そのことと一人の人間が長い時間を生きていくことはイコールみたいに思えるのです』
人間の本質を作品に見出そうと、自分の芸術性を削り出していたんだろうなと作品を見ながら思いました。本質を模索して作ってきた作品だから、作品の表情はなんとも言えず、『悟り』に近い表情なのかもな、と思いました。


2章 私は存在する

・かと思っていたら
1984森へ行く日…異様なものが出現します。山の形をしたボディの彫刻とか
これまでは忠実にモデルを再現している作品ばかりなのに
1990年からは畏形シリーズの始まりのようで
1991年の山シリーズは『不安定さや混沌を鮮明に出す形』として模索している作品が並びます。
『なにかいいものが出るまでデッサンをし続ける』その中で模索し続けて新たに出てきた真実がこういう方向にいくのは不思議な感性ですね。

 
3章 私の中に私はみつける

・『言葉をつかむ手』という作品が目を引きます。めっちゃきれいな女性!!変な手が生えているけど。美人は正義です。美しいーーーー

・が、他は2000年代本格化した異形シリーズが並びます。
 ー背後や肩に伸ばされた手
 ー青や緑に彩色さろた肌
 ー肩がなく背から出た手、膨らんだ腹部、空中にうこうとする形、祈り的と解釈した作品
・なんだこの宇宙人は!って思った作品が多々あったのですが、それは2004年は『青い花』という小説に登場するスフィンクスをモデルにした作品でした。
スフィンクス『世界を知るものは誰だ』
ファーベル(少女)『自分自身を知るものよ』
そこからスフィンクスに自身の芸術性を見出し、スフィンクス制作に進んでいきます。
《戦争をみるスフィンクスⅡ》感想は気味悪かったです。顔は人間なのに、耳が長くて、両生類のボディ(男の😀で胸が巨乳、肌の色は緑色)
イラク戦争への怒りと嘆きを歯を食いしばる表情』よ解説があり、表情も不快だから余計不快だったんだなーと思いました。

・2004年『海に届く手』はなんともいえない表情をしている女性の顔でした。『東日本大震災をうけて、悲しさを認め受け入れてるような表情』的な解説があり、すごいなんとも言えないものを見たなと思いました、これは実際目で見たほうがいい作品です。

・ご本人が解説で言っていましたが、彫刻は『人間を見ている存在』をあらわしていて、ご自身もそうやって人間を見ている傾向があるみたいなことを言ってましたね。こういった特徴のある作品を作るのもご本人の感性があるからなんだろうなと思いました。


4章 私は思う
・アトリエの壁にはられたメモの再現でした。作者の脳内が作られている空間でしたね。

 

5章 私の中をながれるもの
・家族(父母弟)の作品が飾られていて、家族との関係性を垣間見せるものでしたね。

 

6章 私ははぐくむ
切れ端で家族に作ったおもちゃの展示でした。